漢中地方の特産物(梓潼郡編)

 漢代までは広漢郡に属していたが、劉備が益州を獲得すると広漢郡から分割し、新しく梓潼郡を設置した。金、銀、漆といった原料を産出するのもそうだが、この地は白水関、陽平関、涪城、葭萌城、剣閣といった成都防衛の重要拠点が点在。更には氐族や羌族といった異民族の拠点にも通じるルートがあり、地形は複雑。梓潼郡はまさしく交通の要衝であり、成都防衛の要である。

梓潼郡梓潼県
梓潼郡の郡都。「梓潼」とは蜀の土着民の部落名。郡都なのだが大平原を有する訳でもなく、土地が特別に豊かという訳でもない。その為、この梓潼ではなくて後述する涪や葭萌に駐屯する場合もあった。

梓潼郡涪県
涪県は成都から三百五十里(長里:1里=435m)の距離にあり、涪水を下れば巴郡の江州城まで一直線で行くことが可能。また、金鉱、銀鉱、顔料に使用する辰砂(硫化水銀)等を産出し、宋の時代までは金の採掘が盛んであった。蔣琬が大将軍の時に鎮していた拠点でもある。

梓潼郡漢寿県
漢寿県は蜀漢時の名称。漢代は葭萌県、晋代では晋寿県。県境付近は広大な山林があり、漆、薬、蜜の名産地として知られていた。もちろん、他県と同様に金鉱や銀鉱も有している。さらに、葭萌県は白水が漢水と合流し、江州に至って長江に注ぐ水運ルートの中継地点であり、古来から産業上の重要地点として認識された。費禕が大将軍の時に鎮していた拠点でもある。

梓潼郡白水県
劉璋配下の高沛、楊懐が守っていた白水関で有名。葭萌(漢水)⇒白水⇒羌水と溯上すれば参狼羌の住む隴西地方に進出可能。実際、姜維が北伐により隴西地方に進出する際にこのルートを使用したことがある。

梓潼郡昭歓県
名前は残存するが、『華陽国志』本文では具体的に何処を指すのか明確ではない。『華陽国志校補図注』校注者の任乃強氏は種々の文献資料から、蜀漢の頃に設置され、陽平関の位置にあったのではないかと推測している。

梓潼郡漢徳県
剣閣、そして蜀の桟道で有名。言わずと知れた長安へ進出する為の交通の難所である。

at 22:38, 徳本, 『華陽国志』

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中村威也『中國古代西南地域の異民族』(中国史学)

中國古代西南地域の異民族--特に後漢巴郡における「民」と「夷」について
http://ci.nii.ac.jp/naid/40004931940

いい加減、人様にお願いして取り寄せてもらった論文を紹介しておかねば失礼だろう、ということで紹介します。めっさ斜め読み。

以前の日記( http://www.generalstab.net/?eid=161 )にて羌族の動向について興味が湧いた為、某氏にお願いして取り寄せてもらった論文。有難うございます。


さて、本論文の内容は巴蜀地方の異民族についての考察である。時代は戦国時代末にまでさかのぼる。よく、後漢末で言うところの「益州」を巴蜀地方と言うが、元々この地域は異民族が先住しており、しかも歴史的に巴地方と蜀地方は異なる対応を取られてきた…というのが趣旨。

蜀地方に関しては戦国七雄の一角である秦が蜀地方を征服したのち、頻繁に遷徒政策を実施してきた。つまり、蜀地方に秦に住む漢民族を送り込んで実効支配に及ぶのである(かつての日本の北海道開拓みたいなもの)。

しかし、巴地方に対してはそのような政策は採られていない。それどころか文献や石刻史料から、秦〜後漢時代に関しても異民族が地元の豪族となり、太守や県令等、地方行政の要職を占めていたのである。

(尚、巴地方の異民族の大元は楚地方の南郡に基盤を置いていた異民族と考えられ、それが長江を北上するようにして巴地方に居を移したのだという)

石刻史料から、当時の巴地方には「蛮夷律」という法律があり、税制面等、移住してきた漢民族とは異なる扱いを受けてきたようだ。しかもそれは、搾取ではなく優遇という形で。

時代を経ると巴地方の異民族の中には優遇措置である蛮夷律の適用を放棄し、漢民族を自称するに至る面々もいたようだ。だが、そういった漢化があったにしても、この中国古代の巴地方の統治に関しては異民族の規制力が強く、統治上、無視し得なかったようである。


ちなみに、それで考えると巴地方の有力豪族で三国時代に有名な人物と言えば呉の甘寧と蜀の厳顔であるが、彼らも異民族出身と見た方が良さそうである。

at 21:21, 徳本, 読書録

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岩堀利樹『正史「三国志」完全版』(文芸社)

岩堀 利樹
文芸社
(2010-02-01)

 見るからに怪しさ漂うタイトル。何だか良く分からないが、この本は完全版らしい。歴史なのに「完全版」を標榜するその奇天烈さが面白そうなので、ついつい購入に踏み切った次第。2,675円也。

本書の感想は一言で終わってしまうので、ちょっとだけ余談に付き合ってもらいたい。

そもそも、この著者「岩堀利樹」とは何者かということである。まず、CiNiiで検索しても論文一つ引っ掛からない為、少なくとも学術的分野及び作家関係ではないことは確かである。しからば巻末の著者プロフィールを見る。曰く、

「神戸大学卒。三国史及びマキアヴェリ『君主論』(取り分け、チェーザレ・ボルジャ論)を探求する。」

とある。学部すら明記しないところをみると、若しかしたら私のように歴史や戦略論とは無縁な理系出身の民間人なのかも知れない。普通の感覚でいえば、大学時代に(その分野で)著名な教授に師事していれば、それが学部生時代のみであったとしても、「学生時代は○○先生に師事」くらいの一言があっても良さそうだからである。

そしてそれは、「はじめに」「おわりに」の文章にも示唆されている。通常、此処の個所ではお世話になった方々への謝辞、この本が仕上がるに到った道程が記される。然るに、本書に関して言えば、どのような書籍を根拠とし、参考としたかについて記してはあっても、誰にお世話になったかどうか一言も言及されていない。であれば、この本は著者独力で仕上げたものとみて良さそうである。尚、本書の執筆動機は高島俊男『三国志 きらめく群像』を読んだからだという。

で、気になる根拠の文献であるが、『三国志集解』等の膨大な歴史文献(原書)がメインであり、それに加えて満田剛先生、渡邉義浩先生、高島俊男先生等の著作を参考にしたようである。ただし、邦文に関してはナツメ社、ちくま文庫等の普通の書籍であって、学術書ではない。


で、肝心な内容である。結論から言えば

「虚飾の部分を取り除いた三国志演義」

と言って間違いない。構成が極めて三国志演義チック(=ほぼ小説)であり、所々に著者が付け加えたであろう会話文が挿入されている。たとえば後漢末の時代は予想通り、「霊帝=貧乏宗族出身=蓄財熱心な無能皇帝」という構図。石井仁先生は著作の中で「霊帝≠無能」と論じているが、その辺はどうやら無視するらしい(参考文献に石井先生の名前は無かったし…)。

要は、学術書の類ではないのである。だから、学術書に馴染みがない方は後漢末〜西晋初期のダイジェストとして活用可能だが、学術書と期待して読んでしまうと見事に裏切られる。せめて、場面毎に演義と正史の違い、史実を巡って学術的にどのような論議が行われているかを巻末注釈でも設けて論じていれば、いささかでも個人的に満足できたのであるが…。原文の引用もなく、注釈もないのでは、巻末に紹介されている膨大な歴史文献がどのような形で本書に生きたか知る由は無い。


よって、個人的なお勧めの度合いとしては

「正史を知りたいノーマルな三国志ファンにはお勧めするが、学術分野に足を突っ込んだ方は手を出さない方が無難。」

となる。流石に学術分野に足を突っ込んだ方は本書を「完全版」とか「決定版」と思うことはないだろうが、本書の記述はあくまで「歴史に対する一つの見方」であることを明記しておきたい。

at 20:53, 徳本, 読書録

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第8回 東京リアルエールフェスティパル

(この記事は後日追記予定)

さて、昨日2月14日は行きつけのバーのマスター及び常連の方々と一緒に東京リアルエールフェスティバル(in すみだリバーサイドホール)に行った。詳しい記事等は今夜落ち着いてから改めて記すことにしたいが、千差万別な日本各地の地ビールを飲み比べ出来たのはとても良かった。来年もまた参加したいと思う次第である。

にしても、1杯120ml×10杯分は意外と酔いが来る。ちゃんと帰ることができるようにするのに一生懸命自重したが、皆さんは意外と平気なようだった。やっぱり違うなぁ。



それと、今回人様に指摘されて印象深かったもの。
 ・見た目が「大学受験生」と言っても何ら差し支えない(若く見えるらしい)
 ・テトリスが実は上手いらしい(言われるまで気がつかなかった)

ジーンズにフード付きのトレーナーを着ていったせいもあるだろうが、かなり若く見られた。まぁ、若く見られるのは良いことなんでしょうけど、未成年はないわ―、と若干ショックを受けました(笑)

at 06:21, 徳本,

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名士論に関するエトセトラ。

 
注意書き:単なる酔っ払い(←文字通りの意味で)が書いた素人の戯言なんで、お気楽に読んでください(笑)



さて、ちょっとでも三国志に対して深く学んだ方なら(又は、三国志検定を受験した経験のある方なら)、大東文化大学の渡邉先生が提唱している「名士論」をご存じだと思う。もちろん、90年代以降になって提唱された新しい概念であるから、この「名士論」が決定的という訳ではないのだが、少なくとも私の見る限りでは、この名士論に対して目立った批判をという物をあまり目にしてない。それは、単にこのジャンルを研究する研究者の数が少ないのか、それとも、渡邉先生の組み立てた理論が精巧で批判する余地のないものなのかどうかはわからない。私は渡邉先生が書いた『三国政権の構造と「名士」』(汲古書院)を読んだことがあり、それを読む限りではあからさまな矛盾点は見当たらなかった。よくできた意見だと思うし、正史本文の例証に関しても問題ないように思えた。そして、近年、渡邉先生は西晋時代に関する論文を精力的に執筆されているようであるが、その土台になる理論はこの「名士論」であるように思われる。

そんな中、幾つか三国志に関する論文を読んでいくうち、そんな渡邉先生の「名士論」に対する異論を見つけた。その「異論」を出した方が他ならぬ故・堀敏一先生とあらば、個人的に否が応でも注目せざるを得ない。ただし、実際の例証を以って批判をするまでには至っていないし、引用元の論文そのものが渡邉先生の「名士論」に対する批判を主眼にした論文ではないので「異論」と表現するにとどめざるを得ない。

既に堀先生が鬼籍にあることを残念に思う次第だが、少なくともこの日記でその「異論」を紹介することに価値はあると思ってこのように記した次第である。

さて引用元となった論文は、以前にちょこっと三国志の話題で話が出た以下の論文である。
堀敏一『曹操政権と豪族』(『明治大学人文科学研究所紀要』明治大学人文科学研究所、1996年)
http://ci.nii.ac.jp/naid/120001440157/

---<引用開始>---
 川勝義雄氏は曹操政権の主流が清流勢力にあり,それが六朝貴族の淵源となったとする。川勝氏の清流理解については多くの批判や論議があるが、それについては近年の渡辺義浩氏のゆきとどいた紹介に譲りたい。渡辺氏が後漢末の党人の名声から始まって、同様な行動規範をもつ人々を名士とよび、そこから六朝貴族が発するとする点は川勝氏の清流と同じである。しかし渡辺氏は党人の反中央闘争から始まった名士層が、皇帝権力とは別個の自律的秩序をもった世界を形成し、それが六朝貴族の独自の世界に連なるとするのである。そこでは三国政権との関係は、皇帝と名士との別個の勢力の間の攻めぎあいや妥協によって成立すると解されている。
 実は皇帝制と地域社会との二つの秩序の対立は、そもそもはじめから秦漢帝国に内在するものと考えるべきではないだろうか。この二つの秩序を結んだものは、官僚を地域社会から採用する選挙制であり、地域社会において名声を挙げる生き方もそこから生じたのである。ただ後漢末の宦官と党人との闘争は二つの秩序の連絡を絶ちきった。その間に名士らの社会も地域的な広がりをみせるとともに、彼らの間の階層をも形成していく。しかしこれらが皇帝権力との関係を修復し、王朝貴族を成立させていくためには、曹操から晋にいたる政権の役割を考えなくてはならないであろう。もちろん六朝貴族は郷党に根をおいている。しかし同時に彼らは王朝の官僚でもあり、この官僚なしには皇帝権力は成り立たないのである。であるから渡辺説のように名士社会と皇帝権力との対立を固定し、両者の関係という形で問題を考えるのがよいかどうか疑問に思うのである。
 たしかに貴族勢力は皇帝権力とは別の世界をもち、皇帝権力を制約する働きをなす。しかしそれが後漢末から発するのだとすると、それ以前の皇帝権力の浸透を過大に評価する傾向を生みだしはしないかと思う。私は前述のように皇帝権力に対立する地域社会が秦漢帝国に内在するからこそ、そのなかから台頭する豪族・貴族が皇帝権力を制約する存在になるのだと思う。だから秦漢から隋唐まで一貫して強大な専制権力は成立しないのだと考えるのであるが、その点は本稿の課題ではない。本稿はその歴史過程の一端に触れてみようとするにすぎない。
---<引用終わり>---

この堀先生の「異論」の主眼は、渡邉先生が名士社会と君主権力の対立を固定化して当時の政権の在り方捉えている点にある。渡邉先生の論文では後漢時代から名士社会と君主権力の対立構造が生み出されていったと考えているのだが、堀先生はそのように考えていない。堀先生の意見では、君主権力への対抗は秦漢帝国初期の在地社会から存在していたとする。また、単に名士と君主の対立を固定化するのは当時の実像を捉える点で適切ではない(=名士社会と君主権力は相互依存の関係もあったとする考え)と主張する。


しかし、渡邉先生最大の強みは、自身の生み出した「名士論」に関してその例証を多く提供している点にある。もちろん、「名士論」に基づいて史実を新たに再構築したのかも知れないし、場合によっては、「名士論」が成り立つ部分について恣意的に例証として引用していると批判することも可能かもしれない。

一般的な議論において、ある存在、ある概念、ある社会的政体が過去に「存在した」と主張する場合、その証明をする役割を担うのは「存在する」と主張する側である。その主張に対し、その存在を否定する場合はその根拠を示さなければならない。否定材料が十分であればそれが「存在した」とする意見を棄却でき、また批判材料が不十分である場合、それが「存在した」ということは「仮説」として承認される。

堀先生の「異論」を私個人の不十分な見識によって拝見する限り、先に引用した「皇帝権力に対立する地域社会が秦漢帝国に内在するからこそ、そのなかから台頭する豪族・貴族が皇帝権力を制約する存在になるのだと思う」とする部分は、渡邉先生の主張する名士論の構造が後漢末以前にもその萌芽という形式で存在していたことを述べることにはなっても、渡邉先生の名士論を否定するには至らない。また、「渡辺説のように名士社会と皇帝権力との対立を固定し、両者の関係という形で問題を考えるのがよいかどうか疑問に思う」との点に関しても、私はその堀先生の意見を受け入れたく思うのだが、あくまで議論としてとらえた場合、具体的な例証を以って示さなければ反対意見として弱いのではないかと思う。


できればこの辺りの議論の経緯について詳しく知る人がいたならば、こそっと(堂々とでも良いんですが...)教えてほしいと願う次第である。

at 22:47, 徳本, 『三国志』

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鳩山首相は現代の孔融か?

 『明治大学人文科学研究所紀要』(第39巻)に掲載されている堀敏一「曹操政権と豪族」の中に、以下のような孔融に関する文章がある。

---<引用開始>---
 この浮華の一面を代表し、曹操に嫌われて殺された者に孔融がある。孔融は孔子20世の子孫だという。子供のころから利発で、李膺との面識があり、党綱のときには有名な張倹を匿まった。何進に辟挙されて、その後北海の相になり多くの名士と交わった。
 三国志崔琰伝注に引く司馬彪の九州春秋によると、「自らおもえらく、智能は優れ膽り、溢るる才は世に命だかく、当時の豪俊皆及ぶ能わずと。また自ら大志を許し、まさに軍を挙げ甲を曜かし、羣賢と功を要め、自ら海岱に於いて根本を結殖し、碌々として郡守に平居するを肯んぜず。方伯に事えて、期会に赴かんと欲するのみ」とあるように、たいへんな自負をもち、抱負だけは高かった。「然れどもその任用する所は、奇を好んで異を取る、皆軽剽の士なり。稽古の士に至っては、謬りて恭敬を為し、これを礼すること備わると難も、ともに国事を論ぜず。… 高談・教令に及んでは官曹に盈ち溢れ、辞気は温雅にして、玩でて論ずべきも、事を論じ実を考えるに、悉くは行うべきこと難し」とあるように、軽薄な所があって、実行力を伴わなからたから、黄巾に攻められて、たちまち逃げ出す始末であった。後漢書孔融伝は孔融に好意的であるが、それでも「融、其の高気を負み、志は難を靖んずるに在り。而れども才疎にして意広く、迄に成功無かりき」と書いている。
---<引用終わり>---

いやなんと言うか、ここ最近の新聞の政治面を見ている気分である。政界のサラブレッドで有名人と多く交わりがあり、スタンフォード大学で博士号を取得した秀才である。で、政権を取ると詩文のような施政方針演説を行い、達成が怪しいCO2の25%削減を標榜し、外国人参政権と言う誰得の政策を推し進める。

あー、この先どうなるんでしょうかねぇ。

at 21:02, 徳本, 雑感

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宮崎市定『九品官人法の研究』

宮崎 市定
中央公論社
(1997-11)

 
さて、中断を挟みながらも漸くにして読了した本書である。元々、制度史には強い興味があり、本書を読了する前にも同氏『科挙史』(東洋文庫)を読了していた。ただ、『科挙史』の方は隋唐〜明清の科挙制度について中心に触れられ、それより前の時代に関しては軽く触れられていた程度であった。

そこで、三国志好きとしては科挙制度成立以前を取り上げた本書に目を付けたわけである。尚、本書は現在絶版の為、宮崎市定全集を購入して読むか、又は中古本を購入する必要がある。全集購入はスペース的にも金額的にも厳しい為、願わくば中公文庫での復刊を願いたいところである。

本書のカバーする範囲は後漢末から隋唐成立に至るまでの魏晋南北朝期である。文庫サイズで600ページを越える浩瀚な書物だが、時代別に章立てされており、通読以外にも一時代だけ確認したい場合にも容易な構成である為便利である。

私の興味は魏晋南北朝期の中でも後漢末〜魏晋期が中心なので、この時期を中心に本書の内容に軽く触れたいと思う。


【九品官人法という名称について】
さて、本書を語る前に「九品官人法」という名称の由来について触れておく必要がある。資治通鑑の胡三省注では「九品中正」と注釈されるなど、「九品中正制度」と呼ばれることもあるからである。しかし、宮崎氏によれば「九品中正」という呼称は誤解を招く表現で、本来は「九品官人法」と「中正制度」は各々個別の制度であるとする。「九品官人法」とは官職を九つの等級に分けることを指し、「中正制度」は各地方において人物採用の際に人物評価を行う制度のことである。当然、陳羣が起案して制定した時は両者に密接な関連があったが、貴族社会が発達していくにつれ「中正制度」の方は形骸化していく。


【九品官人法の目的】
九品官人法制定の目的について宮崎氏の見解を要約すると、「漢魏革命実施に伴う政権移譲を円滑に行う為」であったとする。曹操が魏公・魏王の位に就任して鄴に魏を建国すると、曹操に縁の深い人物は魏国の官僚として採用されていく。当然、曹丕が後漢から禅譲を受けて魏帝国を成立させれば、その新政権はかつて鄴で働いていた官僚らがベースになるはずである。

が、単純にそうしてしまえば新政権発足と共に旧政権で働いていた官僚たちは一斉に失職することになる。つまり、二重政府状態を円滑に解消しなければ、失職せんとする旧官僚らの猛反発は必至となり、不測の事態が起こらないとも限らない。その為に用意されたのが「九品官人法」であり、「中正制度」なのである。九品官人法の分類に基づき、中正が新旧両政権の官僚らを評価して魏帝国の要職に就けていく。

宮崎氏は後漢期の各官職の秩禄と魏晋期の九品官人法を比較したとき、高官になればなるほど細かく分類されているのに対し、位の低い官職になればなるほど分類が大雑把になっていることを指摘する。これは九品官人法の本来の目的が高官に対する査定・評価にあったことを示し、この意見の根拠としている。

さて、新旧両政権の人事考課を終えた時点で本来の役目を終えた「九品官人法」と「中正制度」であるが、発布されて施行されたからには今後も継続して運用する必要がある。そこで、この制度による新任官僚の評価を実施することになる。各郡に設けられた中正が各地の青年を評価するのであるが、晋の劉毅が上奏文の中で

「今一國之士多者千數,或流徙異邦,或取給殊方,面猶不識,況盡其才力!」

と述べたように、一つの州で評価すべき人数は膨大な人数に及んだ。この面識もない膨大な候補者を、僅かな人数の中正で、数十年後に何処まで昇進する才能を持つか評価しなければならないのである。こんなことは土台無理な話であり、各中正は人物評価の基準として候補者の家柄等を根拠にし始める。古代中国には元々人物評価を行う風土があったから、地元で評価の高い人物が高い起家官で任用されていく。こうして「九品官人法」「中正制度」は貴族制社会確立の立役者となっていくのである。


【名士論との関係】
漢魏革命前後の人物任用に関する話については渡邉義浩氏の「名士論」が有名である為、この書評の最後に「名士論」との相違を指摘しておきたい。

「名士論」における「九品官人法」の役割は、陳羣ら魏を代表する名士が、名士社会を生み出した自らの風土(儒教を軸に置いた人物評価)を制度化せんとして提案したものとなっている。一方、曹操は自らの君主権確立の為に「文学に基づく人物評価」を行って既存の名士社会に対抗しようとしたが、曹丕と曹植を巡る後継争いの中で名士の発言権が増加し、曹操没後、曹丕は自らを支持してくれた名士達の為にも「九品官人法」を容認せざるを得なくなる。その後、魏帝国では曹爽らによる「吏部尚書による人事権の中央集権化」「玄学に基づく人事評価」を試みるなど名士社会への対抗措置を講じようとするが、これも司馬懿によるクーデターと「州大中正制度」成立によって斃れ、結局名士社会の風土を覆すには至らなかった。


【終わりに】
読んでいて思うのは、本書が発売された当時の研究水準の高さであるように思う。専門に研究している人であれば既読であるだろうが、私の様な一般人にとっては数多のネット上の議論を読むよりはるかに有益である。もし、その分野において長らく読み継がれるべき本を古典というのであれば、この『九品官人法の研究』は既に古典の領域に到達しているように思われる。

at 12:37, 徳本, 読書録

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研究者は何をすべきか?

私のマイミク(mixi)さんを始めとして、ネット上で三国志に関してきわめて豊富な知識を持つ愛好家たちがいる。一方、その道の専門家として研究を続ける人たちがいる。

では「該博な知識を持つ愛好家」と「学界で頑張る研究者」は何が違うのか。両者とも知識欲旺盛な点では一致している。また、知識の面に於いても遜色が少ないように見える時もある。

私なりの解釈をするとすれば、研究者が研究者足りえる、言い換えれば愛好家と研究者を区別する要素とは

「新しいモデルの構築」

を現在進行形で目指しているか否かであると思う。たとえ知識が豊富であったとしても、既存の知識を知ることだけで良しとしているのならばその者は研究者ではない。知識豊富な愛好家である。逆に、新しいモデル構築を目指して努力しているのなら、たとえ研究組織に属していなくても研究者足りえる。評価されるかどうかは別として。

では、「新しいモデルの構築」とは何か。それは「今まで知られていないことを明らかにする」ことであり、「三国時代の政治、経済、風俗」を統一的に語ることである。

では、それは如何にして可能となるか。ハイデッガーの『存在と時間』から言葉を借りるとすれば、以下の通りとなる。
---<引用開始>---
考究的な、すなわち特に理論的な問いにおいては、問われているものが規定されて概念として表明されなくてはならない。この場合には、問われているもののなかに、根本において指向されたものとして、問いだたされている事柄がひそんでいるわけであって、問いはそこにいたって目標に達するのである。

ハイデッガー『存在と時間』(細谷忠雄 訳)
---<引用終わり>---
つまり問いを立てること、言い換えれば「何が今までの研究実績で明らかになっており、何が不明確のままなのか」を把握することが肝心である。このことに執念を燃やすこと、これが研究者であるか愛好家であるかの最初の分水嶺になるだろう。そして、然るべき問いを立て、解決までの道程を策定する。それが研究者ではないかと。


都督制度や当時の庶民の暮らしを始めとし、未だ三国時代でよく分かっていない事柄は多い。研究者の方にはこれら課題の解決に向け、是非とも頑張ってほしいものである。

at 19:23, 徳本, 雑感

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演義と正史にまつわる議論

 
何故、日本でも三国志正史は流行らなかったのか?
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1260869680/

正史が何故流行らなかったかという話題。

この論議は重要な基礎を欠いている。
どの程度広まったら「流行っている」とするのか、ということだ。

一般市民が「三国志=正史の三国志」という認識になったらなのか。
現行の三国志ファンの大半が正史を愛読するようになったらなのか。
ゲームや漫画等が正史ベースで作ることが主流になったらなのか。

もし「流行っている」が1番目を指すのであれば全く流行っていない。2番目を指すなら筑摩訳の正史三国志が文庫化されて以降、流行とまでは行かないまでもだいぶ広まっている。もし3番目を指すなら、ゲームや漫画で正史を考慮している作品は結構ある為、流行っているといっても差し支えないかもしれない。

まぁ、きっとここでは1番目を指すのだろうと仮定して話を進める。


そもそも演義と正史では目的が違う。端的に言えば、

演義:大衆娯楽用にアレンジされた歴史小説
正史:王朝の正統性を立証する為に編纂された歴史書

である。1番目の意味で正史が演義に及ばないのは至極当たり前のこと。そもそも、正史は市井に広く読んでもらいたくて編纂したのではなく、政治的正当性を確保する論拠の為に編纂されたのだ。最初から大衆娯楽用にアレンジされた演義とは訳が違う。

日本で言えば、『平家物語』や『大平記』が市井で人気を博して広く読まれることはあっても、『吾妻鏡』や『大日本史』が名前を知られていてもそれ程読まれないのと同じことである。演義と正史はそれくらいに違う。


三戦板における議論の一部を最後に引用しておいたが、正史に関してファンの間で論争が起こるのは仕方がない。何しろ我々より博識な先生方でさえ、三国時代に関する意見の十全な一致を見ていない。それに加え、一般的なファンの間では資料不足に伴う認識不足が加わるんだから、尚更意見がまとまる訳が無い。

まぁ、正史ファンはその議論を楽しんでいるという事実はあるんだけど。幾らかでも頑張れば自分の見解を述べる余地がそこにあるから。

正史ファンってのは以下のような傾向を一般的に望んでいるものだ。勿論、何事にも例外は発生するが、以下に列挙するものは何も三国志に関する議論だけで適用されるものではない。
 ・正史と演義の違いを明確に理解する
 ・正史の全体的な整合性を確保しながら議論する
 ・正史以外を根拠にして発言する場合、その資料の信頼性を把握する
 ・相手の方が論理的、資料的に優れている場合はそれを素直に認める
 ・よく分からない箇所は自ら素直に認める。
 ・正史を読めば明らかに分かる個所は自分で理解する努力をする。
  (例:魏書、蜀書、呉書で赤壁に纏わる記述が異なる)

これを見ても分かる通り、小説として演義を読む場合に求められているものとは大きく異なるはずだ(当然、研究として演義の各版本の相違を調べるというのはこれと別)。演義を読む場合は「木を見て森を見ず」の状態でも全くもって楽しめるが、正史の場合は「木を見て森を見ず」の姿勢は確実にアウトである。その当時の社会状況を出来るだけ把握するように努め、その中で各人がどのような活躍をしたのかという観点で読むように努めなければならない。間違っても、現代に生きる感覚と同じ感覚で正史を読んではいけない。これはとっても疲れることなのである。これを何なく成し遂げる人と言うのは、研究者として明日の食事にありつける為に必死か、知的好奇心が極めて旺盛か、マゾヒストのいずれかに違いないのである(暴論あせあせ)。

まぁ、結論を一言で述べようとすれば、個人的には以下の通りになる。

「正史は大衆向けに記述されていないのだから、流行しなくて当然」

身も蓋もないが、まぁそんなもんだと思う。さて、皆さんの意見や如何に。



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at 12:00, 徳本, 『三国志』

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熊野純彦「日本哲学小史」

熊野 純彦 編
中央公論新社
(2009-12-18)

 今年最初の読了本。意外に哲学史。

日本人は如何にして哲学を行ってきたか。本書はその足跡を示すダイジェストである。正直、普通の人が哲学を読み始めた場合、いきなり坂部恵や戸坂潤、三宅剛一といった人物に傾倒するとは考えられない。やっぱりニーチェとかカント、プラトンといった西洋人哲学者だろうと思われる。その方が自他共に見て「哲学やってます」という感じがするのも要因だろうと個人的には思う(人はそれを「西洋かぶれ」と言うのだけども)。

しかし、本書を読めば「日本人の手による哲学」の方が何となく分かりよい気がしてくる。それは単に本書の著者の方々の力量によるところも大であろうが、同じ日本人として、日本人哲学者の抱く問題意識の志向性が西洋人の抱く問題意識と比較して共有しやすいからではなかろうか。


欧米の最新の流行を学ぶことも面白いかもしれないが、西洋哲学を換骨奪胎しながら構築する日本哲学を読み、知ることも日本人にとっては面白いんじゃないかと感じる次第なのである。

at 00:18, 徳本, 読書録

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