注意書き:単なる酔っ払い(←文字通りの意味で)が書いた素人の戯言なんで、お気楽に読んでください(笑)
さて、ちょっとでも三国志に対して深く学んだ方なら(又は、三国志検定を受験した経験のある方なら)、大東文化大学の渡邉先生が提唱している「名士論」をご存じだと思う。もちろん、90年代以降になって提唱された新しい概念であるから、この「名士論」が決定的という訳ではないのだが、少なくとも私の見る限りでは、この名士論に対して目立った批判をという物をあまり目にしてない。それは、単にこのジャンルを研究する研究者の数が少ないのか、それとも、渡邉先生の組み立てた理論が精巧で批判する余地のないものなのかどうかはわからない。私は渡邉先生が書いた『三国政権の構造と「名士」』(汲古書院)を読んだことがあり、それを読む限りではあからさまな矛盾点は見当たらなかった。よくできた意見だと思うし、正史本文の例証に関しても問題ないように思えた。そして、近年、渡邉先生は西晋時代に関する論文を精力的に執筆されているようであるが、その土台になる理論はこの「名士論」であるように思われる。
そんな中、幾つか三国志に関する論文を読んでいくうち、そんな渡邉先生の「名士論」に対する異論を見つけた。その「異論」を出した方が他ならぬ故・堀敏一先生とあらば、個人的に否が応でも注目せざるを得ない。ただし、実際の例証を以って批判をするまでには至っていないし、引用元の論文そのものが渡邉先生の「名士論」に対する批判を主眼にした論文ではないので「異論」と表現するにとどめざるを得ない。
既に堀先生が鬼籍にあることを残念に思う次第だが、少なくともこの日記でその「異論」を紹介することに価値はあると思ってこのように記した次第である。
さて引用元となった論文は、以前にちょこっと三国志の話題で話が出た以下の論文である。
堀敏一『曹操政権と豪族』(『明治大学人文科学研究所紀要』明治大学人文科学研究所、1996年)
http://ci.nii.ac.jp/naid/120001440157/ ---<引用開始>---
川勝義雄氏は曹操政権の主流が清流勢力にあり,それが六朝貴族の淵源となったとする。川勝氏の清流理解については多くの批判や論議があるが、それについては近年の渡辺義浩氏のゆきとどいた紹介に譲りたい。渡辺氏が後漢末の党人の名声から始まって、同様な行動規範をもつ人々を名士とよび、そこから六朝貴族が発するとする点は川勝氏の清流と同じである。しかし渡辺氏は党人の反中央闘争から始まった名士層が、皇帝権力とは別個の自律的秩序をもった世界を形成し、それが六朝貴族の独自の世界に連なるとするのである。そこでは三国政権との関係は、皇帝と名士との別個の勢力の間の攻めぎあいや妥協によって成立すると解されている。
実は皇帝制と地域社会との二つの秩序の対立は、そもそもはじめから秦漢帝国に内在するものと考えるべきではないだろうか。この二つの秩序を結んだものは、官僚を地域社会から採用する選挙制であり、地域社会において名声を挙げる生き方もそこから生じたのである。ただ後漢末の宦官と党人との闘争は二つの秩序の連絡を絶ちきった。その間に名士らの社会も地域的な広がりをみせるとともに、彼らの間の階層をも形成していく。しかしこれらが皇帝権力との関係を修復し、王朝貴族を成立させていくためには、曹操から晋にいたる政権の役割を考えなくてはならないであろう。もちろん六朝貴族は郷党に根をおいている。しかし同時に彼らは王朝の官僚でもあり、この官僚なしには皇帝権力は成り立たないのである。であるから渡辺説のように名士社会と皇帝権力との対立を固定し、両者の関係という形で問題を考えるのがよいかどうか疑問に思うのである。
たしかに貴族勢力は皇帝権力とは別の世界をもち、皇帝権力を制約する働きをなす。しかしそれが後漢末から発するのだとすると、それ以前の皇帝権力の浸透を過大に評価する傾向を生みだしはしないかと思う。私は前述のように皇帝権力に対立する地域社会が秦漢帝国に内在するからこそ、そのなかから台頭する豪族・貴族が皇帝権力を制約する存在になるのだと思う。だから秦漢から隋唐まで一貫して強大な専制権力は成立しないのだと考えるのであるが、その点は本稿の課題ではない。本稿はその歴史過程の一端に触れてみようとするにすぎない。
---<引用終わり>---
この堀先生の「異論」の主眼は、渡邉先生が名士社会と君主権力の対立を固定化して当時の政権の在り方捉えている点にある。渡邉先生の論文では後漢時代から名士社会と君主権力の対立構造が生み出されていったと考えているのだが、堀先生はそのように考えていない。堀先生の意見では、君主権力への対抗は秦漢帝国初期の在地社会から存在していたとする。また、単に名士と君主の対立を固定化するのは当時の実像を捉える点で適切ではない(=名士社会と君主権力は相互依存の関係もあったとする考え)と主張する。
しかし、渡邉先生最大の強みは、自身の生み出した「名士論」に関してその例証を多く提供している点にある。もちろん、「名士論」に基づいて史実を新たに再構築したのかも知れないし、場合によっては、「名士論」が成り立つ部分について恣意的に例証として引用していると批判することも可能かもしれない。
一般的な議論において、ある存在、ある概念、ある社会的政体が過去に「存在した」と主張する場合、その証明をする役割を担うのは「存在する」と主張する側である。その主張に対し、その存在を否定する場合はその根拠を示さなければならない。否定材料が十分であればそれが「存在した」とする意見を棄却でき、また批判材料が不十分である場合、それが「存在した」ということは「仮説」として承認される。
堀先生の「異論」を私個人の不十分な見識によって拝見する限り、先に引用した「皇帝権力に対立する地域社会が秦漢帝国に内在するからこそ、そのなかから台頭する豪族・貴族が皇帝権力を制約する存在になるのだと思う」とする部分は、渡邉先生の主張する名士論の構造が後漢末以前にもその萌芽という形式で存在していたことを述べることにはなっても、渡邉先生の名士論を否定するには至らない。また、「渡辺説のように名士社会と皇帝権力との対立を固定し、両者の関係という形で問題を考えるのがよいかどうか疑問に思う」との点に関しても、私はその堀先生の意見を受け入れたく思うのだが、あくまで議論としてとらえた場合、具体的な例証を以って示さなければ反対意見として弱いのではないかと思う。
できればこの辺りの議論の経緯について詳しく知る人がいたならば、こそっと(堂々とでも良いんですが...)教えてほしいと願う次第である。